2019年1月13日
いのち
ー生と死、自然と人々の営みが交叉するー
の「場」はどこに?
というタイトルで講師、水野博達に来て頂き開催
介護保険は当事者の要求からできたわけではない。
ゆえにいろいろな問題が出ている。高齢者が生きていく権利
を守るためには声をだしていくしかない。
介護保険は女性の運動からできたというのが大きかったが、介護を求める人たちが作ったものではなかった。「介護地獄」はいやだというのが介護保険を作ったエネルギーになった。それは当事者の要求ではない。高齢者が生きて行く権利をきちっとみなおさないとだめ。
生まれた時も死に行く時も病気の時も人間は依存しないといけない。
人間は必ず死ぬ。介護保険は中産階級の人をモデルにしているし、近代的な医療の考え方(死は敗北)が入っているので、死ということを前程にした保険制度ではない。
我々の力では勝てない問題に対して人間的な連帯をどう作っていくかということを考えないといつまでも元気で、元気であることが絶対正しいとなると障害を持った子どもは正しくないということになる。
依存という考え方は非常に大切で、依存できる関係を社会の中に作りこまないといけない。
自立とは個人の尊厳をベースにして物を言い考え議論してみんなと社会をつくっていくという考え。ピンピンころりが自立だと思われているが違う。病気になってもその人の意志に基づいて社会生活を支えることが自立であって、自分でやることが自立ではない。
意見を表明する文化が日本にはない中で自立という概念が先行している。
要介護3以上の人は国が介護し、それ以外の人は誰もがなることなので地方自治が税金でやるべき、そして地域でお互いの助け合いを使ってやっていくことが必要。地域の基本的な力を取り戻して介護や育児などの問題を解決していく必要がある。
近代は人間中心の社会になった。自然改造も平気でやる。死という問題に対しても整理がつかなくなってきた。
滝畑に来てみたくなった理由の一つ、人間が自然の中で生きているということ。下之坊のFBに神社やお寺がでてくる。高度成長以前の田舎では神社やお寺で人々は自分たちの魂をそこに託していた。何かあったらそこに帰ってこられるという、そういうのが地域社会の中にあった。人間が一番えらいわけじゃなく、自然と共に生きていくんだということを確認できる場がないと原発がさいたるもんで、自然をぶっ壊して地球そのもの、生命体が維持出来ないことが起こってくる。
高齢者の存在が社会をよくする。高齢者がつちかってきた知恵、力を次の世代につなぐことの意義が大きい。
親たちが死にそうになってやっと戦争の体験を語りだした。高齢になって懺悔の気持ちから自分たちが生きて来たことの反省点を話す。例えベッドの中からでも当事者の声を伝えて行く必要があるのではないか。
水野さんのお話を聞いて一休み、みんなでぜんざいを食べました。
そして参加者の一人がハーモニカの演奏をしてくださいました。
その後、質問、感想、意見交換が活発にされ、もっと時間がほしいと思いました。
介護制度がどのようにして作られて来たか、その問題は何か、解決策はなどいろいろお話していただいた。
自然と共の生活の中でお互いに依存しあいながら地域の力をつけ自立した社会を作っていくための大きな指針をいただいたような気がします。
これからもエンディング講座を続けていきます。